
大学が避難所に!熊本地震からの学び
~熊本大学における被災者支援 【前編】~
✔ 当事者意識と日常的なつながりの奏功
✔ 適材適所の役割分担

出所:気象庁地震火山部
(https://www.data.jma.go.jp/svd/eqev/data/
2016_04_14_kumamoto/kumamoto_over1.pdf)
2016年4月14日21時26分、熊本地方を震源とする震度6.6の地震が発生、さらに28時間後の4月16日午前1時25分には、震度7の地震が発生しました。熊本地震の余震と本震とされる地震です。熊本地震の一連の地震では、最初の揺れから36時間の間に震度6弱以上の揺れが7回観測され、発生から4日間で震度1以上の余震が1,000回を超えるなど、短期間で揺れが集中して発生したという特徴があります。つまり、被災した人たちは、数分、数十分おきという頻度で揺れを感じていたことになります。そんな中、熊本大学黒髪キャンパス(以降、熊大)には、不安を感じた学生や地域住民が続々と集まり、最終的に最大1,000名が避難する避難所となりました。熊大は、そもそも指定避難所ではありません。それでも集まってきた地域の人たちを支援するために、学生たちが立ち上がりました。

出所:”416″編集委員会(2017年3月)『416』(http://coc.kumamoto-u.ac.jp/wordpress/wp-content/uploads/2017/07/h28_416.pdf)
2019年7月某日、熊大黒髪キャンパスにおける避難所運営の当時の様子を伺おうと、筆者の元同僚でもあり、現在は熊大で地域防災を専門とする安部美和准教授を訪ねました。当時、避難所運営に携わった安部先生は、地域防災の専門に加え、過去に消防局で救急救命にも従事していた経歴を持つ、まさにキーパーソンと言える方です。筆者は、震災ののちに熊大の学生がとりまとめた避難所運営記録集「416」を読み、聞き取りに臨んだのですが、印象としては「半信半疑」でした。というのも、「416」に描かれた避難所における学生は、まさに八面六臂の活躍で、たまたまボランティア経験者の集まりだったのか、安部先生が陣頭指揮を執ったことによるのか、とよほど好条件が重なった結果であろうと思われたのです。実際に話を伺ってみると、運営に携わったのは防災の知識やボランティア経験を持たない普通の学生でした。大学の備蓄を集まってきた人たちに配ろうとしたものの、総量がわからず、1日目に全て配給してしまうということもあったそうです。ただし、本震から一夜明け、安部先生が避難所に合流したときには、すでに学生による指揮系統ができあがっていました。大学祭の実行委員会(紫熊祭実行委員会)、体育会、熊大生協組織部、法学部志法会、教育学部障害スポーツ福祉課程、医学部保健学科、などサークルや学部等を単位として、各グループ間で情報伝達を行う仕組みが整っていたということです。こうした学生の自発的な動きの背景には、教職員等の“大人” (学生の表現によれば)を混乱した中で見つけることができなかったことに加え、大学という自分たちのフィールドが舞台となったことから得る当事者意識や、日ごろからの学生間のつながりというものがあったように感じられます。
本震から一夜明けた16日の朝には、教職員の存在が把握できるようになり(住民も教職員も誰が誰かわからない状態だった)、安部先生の合流もあり、学生らのグループを軸に、本部、救護、環境、外国人対応、情報、物資管理、受付、夜間警備の8つの班が配置されました。本部には紫熊祭実行委員会、救護には保健センター職員および看護学生、物資管理には生協組織部、外国人対応には留学経験者、ラジオ体操はスポーツ福祉課程の学生など、それぞれの特性に応じた担当が決まっていきました。加えて、各班や役割で連絡ノートを作り、起こったことや活動を記録するとともに本部に情報が集まる仕組みを整え、学生による避難所運営が稼働し始めました。

出所:”416″編集委員会(2017年3月)『416』p.11
(http://coc.kumamoto-u.ac.jp/wordpress/wp-content/uploads/2017/07/h28_416.pdf)
(後編に続く)