「防災」シリーズ02:阪神・淡路大震災から24年後のまち

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シリーズ02:

阪神・淡路大震災から24年後のまち
~神戸市長田区野田北部地区の視察報告~


✔ 震災当時の様子を物語る樹木や街灯
✔ 地域住民による震災後のまちづくり
✔ 新たな住民層により変わる地域
研究主査 中村由美
(写真:山田美里)
[July 17, 2019] 
今年度のURC総合研究のテーマ「防災」の研究活動の一環として、姫路にて開催された「地域コミュニティの防災力の向上シンポジウム」への参加に合わせ、6月3日(月)、神戸市長田区野田北部地区を訪問しました。長田区は、1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災で、最も大きな被害を受けた地域の一つです。今回、野田北ふるさとネット事務局長・野田北部まちづくり協議会会長の河合節二氏に、当時の被災状況および復興後のお話を伺い、復興した街並みをご案内いただきました。※野田北部地区の位置と町の区画
野田北部地区は、JR鷹取駅の南東部に位置しています。

野田北部地区の位置野田北部地区の範囲

上記2画像の出所:野田北ふるさとネットホームページ(http://www.nodakita-furusato.net/modules/aboutnodakita2/

震災当時の様子を物語る樹木や街灯
震災時に発生した火災により、野田北部地区の半分以上が焼失しました。野田北部地区の北部に位置する大国公園には、焼け焦げた跡が残る樹木や、熱で変形してしまった街灯が残されており、当時の様子を生々しく物語っています。

写真左)震災時の火災で焼けた樹木  写真右)熱で変形した街灯
写真左)震災時の火災で焼けた樹木  写真右)熱で変形した街灯
震災時の写真
写真上)震災時の写真

大国公園とその周辺の道路は、阪神・淡路大震災が発生する1か月前の1994年12月に再整備が行われたばかりでした。真新しい道路の上に、倒壊した建物の破片が崩れ落ち、辺りの様子は一瞬で変わってしまいました。大国公園には、火災当時の様子を写した写真も展示されています。全焼した家屋は3割、全半壊した家屋は7割と被害は大きなものでした。

写真左)現在の大国公園、写真右)公園周辺の現在の街並み
写真左)現在の大国公園    写真右)公園周辺の現在の街並み

地域住民による震災後のまちづくり

震災後の街並み整備を示した図
写真上)震災後の街並み整備を示した図

防災を考えるにあたり、実際に大きな災害を経験した地域が、どのように立ち直り、復興したかを知ることで、今後起きる可能性のある災害に、今から備えられる施策を検討する際の大きなヒントとなります。

震災後の復興は、1993年に発足した「野田北地区まちづくり協議会」が大きな役割を果たしました。「野田北地区まちづくり協議会」は、大国公園と周辺道路の再整備などのまちづくりに携わってきた住民組織です。震災後は、地域住民と協力して「街並み誘導型地区計画」(1997年、全国で初めて条例化)のための勉強会等を行いました。また、1997年に国土交通省の「街並み環境整備事業」を導入し、区画整理(写真黄色部分)を順次進めていきました(2007年事業終了)。

復興は、協議会とともに、自治連合会やNPOなどの様々な主体の関わりの下で行われました。そうしたネットワークをつなぐ場として、2002年に誕生したのが「野田北ふるさとネット」です。まちづくり協議会の活動が、ハード面の整備からソフトな活動へと移行する中で誕生し、現在は、地域の課題をみんなで考え行動する場となっています。

区画整理で整備された各通りには、「サザンカ通り」、「ひいらぎ通り」など、花や樹木の名称が付けられています。地面には、それぞれの通りの名称と花や樹木の絵が描かれたパネルがはめ込まれています。この名称は住民自身が名付けたものだそうです。きれいに整備された街並みからは、ここで震災が起こったのだと想像するのは難しく、それほど長い年月が経ったのだということを実感しました。

花や樹木の名称が付けられた道路
写真上)花や樹木の名称が付けられた道路

新たな住民により変わっていく地域
河合氏によれば、震災後もこの地域に住み続けている人は震災前の半分ほどで、震災から24年が過ぎ、当時の様子を知る人たちも少なくなってきているそうです。近年、単身者やファミリー世帯などの新しい転入者が増えているとのことで、単身者向けの新築アパートや、JR鷹取駅の近くにファミリー向けのマンションが建設されている様子も見受けられました。新たな住民が増えている背景には、この地域が三宮や大阪の通勤圏内であるという利便性の高さがあるそうです。

震災の際にボランティアの拠点となった「カトリックたかとり教会」
写真上)震災の際にボランティアの拠点となった「カトリックたかとり教会」

また、長田区の人口の7~8%は海外の人たちで、韓国人やベトナム人の住民も増加しています。震災の際にボランティアの拠点ともなった「カトリックたかとり教会」には、日曜日のミサの時には、ベトナム人の教徒が地区外からも多く集まっていてとても賑やかだそうです。河合氏のお話の中で、「震災が起こった時は、顔を知っている人でないと助けることができない。日常的に近隣住民とのコミュニケーションをはかっていることが大事だと思う。」という言葉がとても印象的でした。地域に住む人たちが入れ替わる中でも、人と人のつながりをいかに作っていくのか、そうしたつながりをつくるための日頃の取組みが、災害に向けた「備え」になり得るのだと感じました。