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インバウンド誘致の可能性のある福岡近郊の史跡(唐)

いつ:
2020年8月28日 @ 09:00
2020-08-28T09:00:00+09:00
2020-08-28T09:15:00+09:00
特別史跡水城跡の碑、水城資料館、堤防を横切る高速道路(全て筆者撮影)

①特別史跡水城跡の碑、②水城資料館、③堤防を横切る高速道路(全て筆者撮影)

盂蘭盆(仏教)と中元(道教)、今年も2つの宗教の節気が一緒にやってきました。コロナ禍で遠出できないため、盆休み中に自転車に乗って福岡近郊の史跡巡りをしました。その一つは大宰府にある水城跡です。

国道3号線に沿って福岡市から南下して太宰府市に入ったところに「特別史跡水城跡」の碑が立ち(写真①)、隣に土塁(堤防)の一部を抉って造った「水城資料館」と展望台があります(写真②)。

水城は「日本書紀」に登場する名所旧跡。「於對馬嶋・壹岐嶋・筑紫國等置防與烽。又於筑紫築大堤貯水、名曰水城」(巻第廿七天智天皇)と記されています。

史書によると、水城は白村江の戦(663年)で敗北した翌664年に、日本(天智天皇)が大宰府政庁を防衛するために築造した軍事施設です。当時、圧倒的強さを誇る唐や新羅の連合軍が進撃してくるかもしれないという危機的状況のなか、日本は遣唐使を派遣して唐との和睦交渉に駆け回る一方、対馬・壱岐に烽火・防人、筑紫に水城を築きました。

水城の堤防の長さは1.2km、基底部の幅は80m、そして高さは10mを超えていました。堤防の南側(博多側)に幅60m、深さ4mの大濠が掘られ、御笠川から引いてきた水を貯え、博多湾からの敵軍侵入を阻止する防御態勢を整えたのです。

濠は鎌倉時代(13世紀)に埋められましたが、堤防は今もかつての姿をとどめています。景観に配慮するため、堤防を横切る高速道路の高さも、水城跡の頂部より低く下げられたそうです(写真③)。

一年足らずでこれだけの大規模な防衛施設を築造したことから、当時の人々が大陸・半島に抱いた警戒感を垣間見ることができます。幸いなことに、水城もまた中国の万里の長城と同じく、実戦に使われたことは一度もなかったそうです。

日中韓を巻き込んだ白村江の戦、その関連遺跡である水城跡はこれからインバウンド旅行客から注目されるかもしれません。それに朝倉の恵蘇八幡宮も加えれば、より充実した周遊コースとなるでしょう。恵蘇八幡宮裏手の御陵山には、天智天皇の母親にあたる斉明天皇の御殯斂地跡があります。彼女は新羅遠征の陣頭指揮をとるために661年5月に奈良から九州へと赴いたものの、2ヵ月後に朝倉の地で崩御され、ご遺体は一時期この朝倉の地に安置されていたそうです。白村江の戦はその2年後でした。

主任研究員 唐 寅
http://urc.or.jp/event/column-20200828
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